1900年、ピカソは19歳の時に親元を離れ、友人カサジェマス(カサヘマス)らと初めてパリを訪れた。ピカソはカサジェマスと共同で、モンマルトルのカブリエル通り49番地にアトリエを借り、何人か女性モデルも雇って絵画制作に没頭していった。
カサジェマスはモデルの一人であったジェルメーヌ(Germaine Pichot)に熱烈な恋心を抱いていた.。しかし性的に不能であった彼にジェルメールは振り向かなかった。
ピカソ「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1900年 画布・油彩 グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)
カサジェマスと初めて訪れたパリでピカソが描き上げた作品。一番左側の女性のモデルはジェルメーヌだという。
カサジェマスを一人にしてしまったピカソ
ピカソは失恋に落ち込むカサジェマスを元気づけようと、または彼女から離れた場所で冷静に気持ちの整理をつけさせようと、カサジェマスをピカソの故郷マラガに連れて行ったが、彼の心の傷を癒すことはできなかった。
ピカソはカサジェマスと一旦別れ、マドリードへ赴いて新しい芸術雑誌の創刊に専念していた。カサジェマスはバルセロナにしばらくとどまっていたが、ジェルメーヌへの未練は日に日に強まるばかりだった。
無理心中を図ったカサジェマス
どうにもならない現実に思いつめたカサジェマスは1901年2月、ジェルメーヌのいるパリに再び姿を現した。その手には、自分を苦しめ続けるすべてに決着をつけるための一丁の拳銃が握られていた。
マラガでピカソと離れてから20日後の1901年2月17日、カサジェマスの計画はついに実行される。彼は行きつけのカフェに仲間たちとジェルメーヌを誘い出すと、用意していたリボルバーを取り出し、とっさに逃げようとするジェルメールへ向けてその引き金を引いた。
拳銃による無理心中を図ったカサジェマス。ジェルメーヌへ発砲した直後、彼は自らのこめかみに銃口を当て、その若い命を絶った。
死んだふりで助かったジェルメーヌ
事件後に作成された地元警察の調書によれば、カサジェマスがジェルメーヌへ向けて放ったリボルバーの銃弾は彼女に当たらなかったが、ジェルメーヌは撃たれたふりをして、その場で死んだように倒れていたという。
そして彼女の本名はフロロンタン(旧姓ガルガロ)と判明し、既に結婚していて夫がいたという。この既婚の事実は当時ピカソもカサジェマスもまったく知らなかったという(参考:NHK ドキュメンタリー番組(BSプレミアム)「巨匠たちの青の時代 パブロ・ピカソ 哀しみながら見えた青の光」 2011年放送)。
悲しみに暮れるピカソ
カサジェマスの死後、最悪の形で友人を失ったピカソは、永遠の眠りについたカサジェマスを題材に何枚かの絵画を残した。モンマルトルで共同生活を送った無二の友人への哀悼の念と、精神的に不安定だった友人をマラガで一人にしてしまったことへの自責の念、様々なものがピカソを苦しめていただろう。
ピカソ「カサジェマスの死(死せるカサジェマス)」 Death of Casagemas Date: 1901
ピカソ美術館(パリ)蔵
ピカソ「青の時代」の大きなきっかけに
当時のピカソは経済的にも余裕がなく、友人の悲劇に深い悲しみと精神的ショックを受けたピカソの絵画作品は、以後1904年までの数年間、後に「青の時代」と呼ばれる陰鬱な青い色彩で統一された作風へと変化を遂げていく。
1903年には、「青の時代」の集大成的な作品とも言えるピカソ「人生 La Vie」が描かれ、その中の男性の顔としてカサジェマスが描かれた。寄り添う女性はジェルメーヌだという。
なお、カサジェマスの自殺以前にも、ピカソの絵画には「青の時代」を思わせる青い色彩の作品が存在していたが、「友人の自殺をきっかけに、すでにまかれていた(「青の時代」の)種子が一挙に目を吹き出したと考えるのが妥当であろう」。(参照:東京美術「もっと知りたいピカソ 生涯と作品」)
【関連ページ】 ピカソ「人生 La Vie」 絵画の解説
カサジェマスに関連するピカソの絵画作品
カサヘマスの埋葬(招魂) 1901年 油彩・カンヴァス 150 90cm パリ市立近代美術館蔵
エル・グレコ「聖マウリティウスの殉教」を彷彿とさせる画面構成の下半分では、白い布に包まれて横たわるカサジェマス(カサヘマス)の姿が描かれ、そばで嘆き悲しむ喪服の人々により哀悼の意が示されている。上部にはカサジェマスの魂が白馬に乗せられ、三人の裸の売春婦を通り過ぎて天へと運ばれている。
(参考:西村書店「ピカソ PICASSO」作品解説)