1888年末にゴッホとの共同生活が耳切り事件で幕を閉じると、1891年4月に楽園を求めて南太平洋の仏領タヒチに渡ったゴーギャンだったが、貧困や病気に悩まされて結局1893年フランスに帰国した。
だがパリでは絵は売れず、妻子にも見放され、愛人にも裏切られると、居場所を失ったゴーギャンは1895年に再度タヒチに渡航した。もはや戻る場所もなく、異国の地で失意と貧困にあえぐ中、止めを刺すかのように、1897年(49歳)、最愛の娘アリーヌの死の知らせを受ける。
完成後の自殺を念頭に、人間の生と死を描いた晩年の遺書的作品
ゴーギャンは完全に希望を失い、完成後に自殺を図ることを念頭に置きながら、人生最期の作品の作品として、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の制作を開始した。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
絵画の右側から左側にかけて大きく分けて3つの場面構成となっている。右側の赤子と家族は「人生の始まり」を、中央の果実を取る人物は「成年期」を、左側の年老いた老婆は「人間の死」を表現したとされる。
左側に配された神像については、タヒチ神話における至高の存在であり祭壇マラエに祭られる創造神タアロアとする説や、月の女神ヒナと解釈する説があるようだ。いずれにせよ、人間を超越する存在である「超越者 (the Beyond)」として描かれている。
また、老婆の足下に描かれた白い鳥については、言語を超えた「神秘の象徴」とする研究者らの解釈もあるという。この点についてゴーギャンは、「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」と書き残している。
服毒自殺を図ったゴーギャン
死を決意し臨んだ本作品の完成後(1898年)、ゴーギャンは服毒自殺を図ったが、結局失敗して死にきれずに終わってしまう。
最晩年の1901年には、タヒチ島から北東に約1500kmの海域に位置する火山島群のマルキーズ諸島(マルケサス諸島)に渡り、1903年にヒバオア島で死去した。満54歳没。