ポール・ゴーギャン
Paul Gauguin/1848-1903
フランス ポスト印象派/楽園を求めて訪れた南国タヒチ島だったが…
ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin/1848-1903)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。
右画像は1893年の自画像(オルセー美術館)。
航海士として海外へ
10代後半の頃は、航海士として南米やインドを訪れた。二十歳から数年間は海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。
その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。
日曜画家から専業画家へ
印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞めて画業に専心するのは、彼が30代後半の1883年のことである。
1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として絵画を制作した。1888年には、南仏アルルでゴッホと共同生活を送っている。住居となった建物は、ゴッホの油彩作品「黄色い家」として描かれている。
「ひまわりを描くゴッホ」 1888 油彩・画布 ファン・ゴッホ国立美術館
楽園を求めて南国タヒチ島へ
1891年、西洋文明に絶望したゴーギャンは、楽園を求めて南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領のタヒチ島に渡る。
しかし、彼が夢見た楽園はそこにはなく、貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻った。その後、叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 所蔵
絶望と病苦の中で彼が見たものとは?
一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年には再度タヒチに渡航した。
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦。妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。
われわれはどこへ行くのか?
こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりとも言うべき大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を完成させた。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」
晩年の1901年には、さらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、1903年に死去した。
当時の画家たちからの受けは悪かったゴーギャンだったが、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、その死後になって次第に名声と尊敬を獲得していった。