ピカソの絵画「ゲルニカ」が描かれた1937年頃のスペインは、左派(社会主義)と右派(保守勢力)の対立が激化していた時代だった。左派はソ連が支持し、右派はドイツが支援する形で激化したスペイン内戦は、ピカソ「ゲルニカ」が誕生する大きな歴史的背景となった(ピカソは左派)。
まずは簡単に当時のスペインの歴史を振り返り、ゲルニカの歴史的背景を簡潔にまとめた後、絵画作品としての解説・エピソードに触れていきたい。
社会主義の台頭
スペインは第一次世界大戦後の混乱で民衆の不満が高まり、王制打倒を目指す共和派(左派)が選挙で躍進すると、国王アルフォンソ13世は退位を余儀なくされ、1931年に無血革命の形で共和制へ移行した(スペイン第二共和政)。
共和政下のスペインでは1936年、共産主義政党の国際組織コミンテルンの暗躍により社会主義政党「スペイン人民戦線」が政権を握ったが、政治的混乱や治安の悪化が収まらず、また急激な政教分離により、カトリック信者が大半を占める民衆の支持を失っていた。
フランコ将軍がクーデター
1936年7月、保守派の中心人物の一人カルボ・ソテロが暗殺されると、スペイン国内の保守派は結束を強めた。7月17日、カナリア諸島へ島流しにされていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起すと、軍部や地主、カトリック勢力などの保守派が次々とこれに呼応し、社会主義政府に対して大規模な反乱を起こした。スペイン内戦の勃発である。
社会主義政府はソ連が支持、フランコを中心とした右派の反乱軍をドイツ・イタリア・ポルトガルが支援し、イギリス中立の立場をとった。当初フランスの社会主義政権はスペイン政府側を空軍で支援したが、政権崩壊により中立に移行した。
<右写真:フランシスコ・フランコ将軍>
ゲルニカ空爆
ドイツ・イタリアから航空部隊・戦車部隊の十分な支援を受けたフランコ軍は、スペイン北部を次々と制圧し、1937年春には大西洋に面するバスク地方を分断・孤立させた。
1937年4月26日、ドイツが義勇軍として送り込んだ航空部隊コンドル軍団による爆撃型ユンカースJu52(ユー52)やハインケルHe111の編隊が、バスク地方の一都市ゲルニカ(Guernica)を空爆した。
なぜゲルニカが狙われたのか?
当時スペイン北部バスク地方は孤立しており、ゲルニカには共和国軍の部隊は存在していなかったが、ゲルニカは通信施設などの軍事目標があり、また前線へ通じる交通の要でもあった。
こうしてバスク地方のゲルニカは、共和国軍の連絡・移動・補給を断つ上で極めて戦略的価値の高い要衝として、ドイツ軍による空爆のターゲットとして、そして後のピカソの作品によって、世界的にその名を広く知られることとなった。
<右写真:空襲を生き延びたゲルニカのオーク>
政治的な意味合いが強いピカソ作品
なお、ゲルニカ空爆以前にも無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生している。ピカソの絵画「ゲルニカ」は、左派(社会主義政府)の立場からフランコ軍側を非難する意図で描かれた可能性が高い作品であり、当時どちらかの陣営を一方的な悪として印象付ける恐れがある作品であったことには留意する必要がある。
実際、ゲルニカ空爆の約3か月前の1937年1月、ピカソは対立するフランコ側を貶める内容のカリカチュア(風刺画)「フランコの夢と嘘」という政治的な内容の銅版画でフランコを名指しで中傷しており、ゲルニカ以前にもピカソによる反フランコという政治的な態度は既に明白になっていたのである。
フランコ勝利 ピカソはフランス共産党へ
1939年には、フランコ軍がスペインの首都マドリードを陥落させ、反乱軍が勝利を収めた。フランコ将軍は国家元首(総統)として独裁体制を敷き、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。
1944年、ピカソはマルクス・レーニン主義を掲げるフランス共産党に入党し、1973年に亡くなるまで一生共産党員として活動を続けた。友人の依頼で1953年には絵画「スターリンの肖像」を描き上げ、他者から自分の思想を否定されると、「自分は共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したという。
ちなみに、ピカソが入党したフランス共産党員としては、『ジムノペディ』や『グノシエンヌ』で知られるフランスの作曲家エリック・サティや、フランスで活躍した俳優・シャンソン歌手イヴ・モンタンなども、一時期党員として活動している。
絵画「ゲルニカ」の意味するものとは?
パリでゲルニカ空爆(1937年4月26日)の一報を受けたピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館で展示される予定の壁画を製作していたが、急きょテーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ、油彩よりも乾きが速い工業用ペンキを用いて、縦3.5m、横7.8mの大作「ゲルニカ」を6月4日には完成させた。
白黒で表現された一面モノクロームのキャンバスには、人間のような目を持った闘牛の頭、その下には空爆の犠牲となった子供を抱えて泣き叫ぶ母親、狂ったように叫ぶ馬、天を仰ぎ救いを求める者など、逃げまどい苦しみ叫ぶ人々や動物の様子が描かれている。左下で倒れている人物はピカソ自身であるという。
なお、闘牛や馬が意味するものとしては、牛をファシズム、馬を抑圧された人民とする解釈や、牛を人民戦線、馬をフランコ主義とする解釈などもあるようだ。
これに対してピカソはこう反論している.。「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵の中の物に何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、意味を持たせようとするのは私のアイディアではない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、本能的に、そして無意識に、私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」(引用:PBS Treasures of the World より)
愛人の修羅場シーンがゲルニカに登場?
数多くの女性遍歴で知られる恋多き芸術家ピカソは、ゲルニカ製作当時はバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと結婚していたが、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもっており、ドラ・マールはピカソの良き理解者として「ゲルニカ」制作過程を写真に記録していたことでも知られている。
<右絵:ドラ・マールがモデルの「泣く女」>
ここでなんと、ピカソと仲睦まじく過ごすドラ・マールに対して、もう一人の愛人フランソワーズ・ジロー(Frqncoise Gilot)が猛烈に嫉妬。ピカソが「ゲルニカ」制作に取り組んでいる真っ最中の背後で、二人の愛人が取っ組み合いのケンカを始めたという逸話が存在するという。
この突拍子もない逸話によれば、ドラ・マールとフランソワーズ・ジローの修羅場を見たピカソはインスピレーションを受け、完成した「ゲルニカ」の中で、両腕を掲げて泣き下げぶ右上の女性がドラ・マール、絵の中央でランプを持ち室内を覗き込んでいる女性がフランソワーズ・ジローだそうだ。
しかし、ピカソとフランソワーズ・ジローが出会ったのは、絵画「ゲルニカ」が完成した1937年6月から約6年後のことであり、当時はまだ彼女は中学生ぐらいの年齢であったことから考えれば、このエピソードには若干無理があるようだ。
ただ、ピカソならこんなことが本当にあってもおかしくないなと感じさせてしまう事自体、後世に名を残す偉人ピカソの型破りで特異な個性の表れであり、その余人に代えがたい奇抜で自由な生き方と天賦の才能にはただただ脱帽するばかりだ。