ロンドンのテイト・ギャラリー(テート・ギャラリー/Tate Gallery)に所蔵されているピカソの絵画「泣く女」(油彩 59.7cm×48.9cm)は、「ゲルニカ」の習作として描かれた複数の「泣く女」のうちの一作品。暖色系の色彩が多用された極彩色の鮮やかなコントラストが独特の雰囲気を醸し出している。
ピカソ「泣く女」は愛人ドラ・マールをモデルとした絵画作品で、ゲルニカと同年の1937年に複数点制作された。
スペイン・マドリードの国立ソフィア王妃芸術センター蔵のクレヨン画「泣く女」では、ゲルニカでも見られた柔らかな曲線が用いられているのに対し、テート・ギャラリー蔵の本作では、感情をあらわにした女性の表情が鋭角的な強い線で描かれている。
「泣く女」のモティーフにおける結論的な作品
ゲルニカ完成から約4か月後となる1937年10月頃に描かれた本作「泣く女」は、ピカソが数か月間追求してきた「泣く女」のモティーフにおける「結論的な作品」(中央公論社「カンヴァス世界の名画 ピカソ」より)として位置づけられるという。
スペイン内戦が続く中、ゲルニカとほぼ同時期に描かれたピカソ「泣く女」。激動の時代を取り巻く不安と緊張感が造形と色彩のコントラストに表わされ、第二次世界大戦へと向かっていく重苦しい社会的雰囲気すら感じとられるようだ。
もちろんピカソ本人の人生における葛藤や苦悩なども無関係ではないだろう。しかし「泣く女」で描かれた女性は、単なる個人的な悲劇に涙する状況を大きく超越している。それはもはや、「人間の運命について、存在の根源における悲劇について慟哭する顔を示しているといえる」(中央公論社「カンヴァス世界の名画 ピカソ」より)。
ピカソを共産党へ勧めたドラ・マール
「泣く女」のモデルとされるピカソの愛人ドラ・マール(Dora Maar/1907–1997) は、ユダヤ系ユーゴスラビア人の父親を持つフランスの写真家。少女時代にアルゼンチンで生活していたためスペイン語が流暢で、ゲルニカが制作される前年の1936年頃からピカソと急速に交流を深めていった。
当時ピカソにはもう一人の愛人フランソワーズ・ジロー(Frqncoise Gilot)がおり、二人はピカソのアトリエで取っ組み合いのケンカをしたというエピソードもよく目にするが、ドラ・マールは感情をあらわにするタイプの女性だったようで、ピカソにとってドラ・マールはまさに「泣く女」そのものだったようだ。
ドラ・マールはシュルレアリスムの写真家として活動しており、ユダヤ系の血筋ということもあってか、当時のファシズムに対する左翼的な活動家とも交流を持っていた。彼女は自らの政治的信念をピカソにもぶつけており、フランス共産党へ入党するようピカソを強く説得していたようだ。1944年、ピカソはフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。